オリンピックスタジアムを本拠地にしていた、大リーグのナショナルリーグに所属するモントリオール・エクスポズの試合を毎日見たいという理由だけで、売り子をやっていたのであった。
オリンピックスタジアムの入口には、1976年の夏季オリンピックの名場面の巨大な写真がいくつも貼ってあった。特に目を引くのは、なんと言っても、全種目で10点満点を出したコマネチであることは言うまでもない。とはいえ、1980年代終りにもなると、コマネチの写真もかなり色褪せていた。
僕は、郊外のフランス系カナダ人のおばあさんの家にホームステイしていたのだが、実際には、モントリオールの著名な病院で看護婦として定年まで勤め上げた、英仏語バイリンガルのおばあさんは1年のほとんどをフロリダで過していたため、一人で大きな家に住んでいたようなものであった。
おばあさんは、小遣い稼ぎのために、空いている部屋を学生に貸していたので、様々な国の学生が時々別の部屋にやってきては数週間で去っていった。
あるとき、おばあさんの遠い親戚だという20代半ばの女性が、ケベック州のとてつもない田舎からやってきた。
20代も半ばだというのに、まさしく田舎から出てきたばかりのやぼったい格好をしていた。
モントリオールのあるケベック州だけで日本の5倍も面積があり、彼女の出身地はプロペラ機を二回乗り継いで行かないといけないくらいの奥地ということである。
シルヴィーという名の彼女は、モントリオール大学で声楽を学ぶために、その奥地から出てきたのであった。将来の夢は、オペラ歌手と言っていたが、はっきり言って、オペラ歌手を目指すのは10年早い、というような雰囲気を醸し出していた。外見で判断するのもどうかとは思うが。
志の大きな彼女は、他の学生とは違って、すぐにおばあさんの家を去っていくこともなく、奇妙な同棲生活は1年以上続いた。
その間、自分のお弁当を作る彼女は、僕のお弁当も作ってくれ、僕のために洗濯までしてくれていた。
、、、といえば、人の良さそうな人物に聞こえるが(実際のところ、田舎者だけあって人は良かった)、時々とんでもないことをしでかすのであった。
ものすごく寒い冬のある日、一緒にスーパーボールを見ようということになり、都心から帰宅途中の僕がKFCに寄ってチキンを買い、そのKFCの店まで彼女が車で迎えに来ることになっていた。
その店は、持ち帰り専用で店内で彼女を待つことはできない。
マイナス20度の気温の中、待てども待てども彼女は来ない。携帯電話もない時代である。公衆電話から家に電話をしても彼女は出ない。
仕方なく、20分ほどの道のりを、まるで北極探検隊のように決死の覚悟で歩いて帰ると、家の前でスリップした彼女の車が側溝にはまっていた。我々は、スーパーボールを見ながら、ケンタッキー・フリーズド・チキンを食べる羽目になった。
また、夏のあるときなど、僕が家のブロック塀に野球のボールをあてては跳ね返ってくるのを取る守備練習をしていると、真っ裸でプールサイドに寝そべっていた彼女がいきなり立ち上がり「私もやりたい」といったため、目のやり場に困った僕の股間にボールが直撃するということもあった。
冬の長い国の人々にとって、夏の間に真っ裸で日光浴するのは普通の行為なのだが、いきなり立ち上がらなくても。。。
奇妙な同棲は、僕の帰国をもって終焉を迎えることになる。
「私以外に日本に持って帰りたいものは?」と聞く彼女に、「キミはいらないが、ゴシゴシタオルだけは持って帰りたい」と答えたのが最後の夜の会話であった。ゴシゴシタオルとは、お風呂で体を擦りまくらないと気が済まない僕にとっては必須のものであった。
モントリオールのドルバル国際空港に見送りに来た彼女は、セキュリティ検査に入ろうとする僕の腕を引っ張り、僕の頬にブチュとキスをして一粒涙を流した。インターネットのない時代である。永遠の別れであった。
世界の経済大国の時間間隔は、カナダの時間間隔とはまったく違うものであった。カナダで詰め込んだ荷物を開けることもなく、仕事に明け暮れる日々が続いた。シルヴィーから時々手紙が来たが、返事をすることもなく、忙しさのあまり封を開けることすらないときもあった。それほど僕は忙しかった。
数年後、例のゴシゴシタオルで体をゴシゴシしていると、ふと長い金色の髪の毛に気が付いた。「俺っていつから金髪になったのだろう?」と思った瞬間、シルヴィーのことを思い出した。同じ浴室を使っていた彼女の髪がなにかのきっかけでくっついたのであろう。
風呂から出た僕は、開けていないシルヴィーからの手紙をいくつか開けてみた。その中の一つに、「ウィーンのオペラから声が掛かったのでオーストリアに引っ越す」と書いてあった。それから先のいくつかの手紙は、確かにウィーンの消印になっていた。
その後、数年間はウィーンと東京の間で月に一回ほどの文通が続いた。
僕もいいおっさんになった35歳のとき、生まれて初めてオーストリアに行くことになった。そして、シルヴィーに15年ぶりに会った。あの田舎者の彼女が、立派なオペラ歌手の風貌に変わっていた。
15年の月日に対して、数時間の対面は十分ではなかった。お互いにあまりにも違う人生を歩んでいたために、双方の「あれ以来」はいくら話しても埋まることはなかった。すべての会話がぎこちない。会話が途切れる度に、彼女は、少し色が褪せてきた金髪を数本抜いては床に捨てていた。それからまた数年が流れた。
相変わらず、シルヴィーとの月一回程度の文通は続いていた。
そんなある日のシルヴィーの手紙。「モントリオールに帰った!」という一言だけの手紙に、金髪が三本貼りつけてあった。
そのとき初めて、彼女が意図的に、僕の最も持って帰りたいものであるゴシゴシタオルに髪の毛を残したことに気が付いた。
20時間後、僕は、今ではトルドー空港と名前を変えた旧ドルバル国際空港の到着ロビーにいた。
空港の外の寒暖計はマイナス27度を指していたが、シルヴィーの腕の中は楽園のように暖かかった。
ラベル:愛
シルヴィーのエピソード素敵です。どこまでが事実かカミングアウトするコーナーはないのでしょうか?すごく気になります。
これは、全て実話です。
同様に、このブログにある全ての話が実話です。。。
こんなエピソードは初めて聞きましたが。。
ステキぃ〜。ぽわわぁ〜
それにしても、シルヴィーさん、まるで昔の日本女性みたいです。
どこの国でも、同じような気がします。
それにしても、「昔の」日本女性というところが、気になります。
コメントありがとうございます。
この話の続き、、、むむむむ、、、真面目に続編を考えてみます。
最近、このブログの本来の目的であった「恋の物語」がスランプに陥っています。。。
外国人のあなたには、質の高い日本語学校を紹介してあげましょう。。。
どこのクラブのおねいさんか?と思いきや、
クライアントの家に行った時にじゃれつかれた
ゴールデンリトリーバーの毛でした。。。。
むむむ、それは緊急事態だったわけですね。
我々男性陣には女性の直感というほど不思議で怖いものはありません。(参照:「女性というもの、アナドレナイ。。。( http://panchona.seesaa.net/article/51283893.html )</a>」、「浮気がバレる理由( http://panchona.seesaa.net/article/51283967.html )</a>」)
このワタクシもクレグレも気を付けるようにいたします。
って、誰も気にする人はいないのだが。。。
名作です!
それほどでも。。。